2016年10月22日土曜日

ひとは"やってしまう"生き物であって、


このことを聞いて、思い出したのは家庭科のテストだ。家庭科ってもうないんですか。
”やってしまった”という後悔を理解しない長谷川豊氏 石蔵文信

どんな設問だったか、詳細には憶えていない。スーパーで売られている身体に有害な食品添加物について。テストの最期にあるような、あなたの考えを書きなさい的なやつだ。
僕は、そんなのは見れば分かることだし、選ぶ選ばないは消費者の自己責任だ、というようなことを書いた。
先生は僕の回答に☓をつけて、コメントをつけた。食品添加物に関する知識がないなら、消費者は選べないでしょ、と。

僕は全然納得がいかなかった。知識というものは、道端にいくらでも転がっているものだ。添加物への知識がないのは、その人がその知識を選んでいないからに過ぎない。その責任はやっぱり消費者に帰すだろう。
こまっしゃくれた、かわいげのない子どもであったからして。

書評:隠喩としての病

僕は実によく風邪を引く。そしてまた、引いている。
周りの人は実に強い。めったに風邪なんか引かない。僕ばかりが引いていて、なまけもののように寝込む。
我が身体に勁さあれ、と呟いてみれど、咳しか出てこない。これは困ったことですよ。
これでは単なるなまけものではないか。いや、なまけものなんだけれど。

このなまけものっぷりはあくまで病気のせいであり、真正のわたくしは、いっさい、なまけものではない。
そのように嘯いてみたところで、風邪を引いてばかりいるわたくしの真正など、だれも知るはずがないのです。また、貴様の云う真正とは何か、そう聞き返されたら、答えに窮するのはわたくしの方であります。真正のわたくしとは結局、願望としての、理想としてのわたくしでしかないのか。
そう考えると、少し悲しくなったのち、単なるなまけものとして居直るのみであります。
I 'm only in love, with picture of myself〜♪

さて、


以前読んだ『病の皇帝「がん」に挑む』の文中では、ソンタグがしばしば引用されていた。
周知のとおり「がん」の印象はとてつもなく悪い。それ加え、「がん」という言葉自体が、ある種の破壊力を帯びている。
実際に、がんの闘病や治療の過程が十分に過酷なものであるとして、イメージとして「恐ろしいもの」として、社会的にも禍々しい影響力を持っていること。
著者がソンタグを引用した理由はここにある。病にはイメージがつきまとう。







2016年10月4日火曜日

ベビメタと同族嫌悪

どうも、Fu-metalです。

クリムゾンの"太陽と戦慄"を聴きながら書いていますが、宿題として自分に課したものですので、あえてベビメタについて書いてみようと思います。もう10月になりますが。


 

もう、かの"メタル・ゴッド"と共演している時点で、なんともはや、という感はありますが。"ペイン・キラー"がそんなにいい曲だとは未だに思えない。オモチロイ。そうは思うけど。