2014年5月11日日曜日

生きている感覚:えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる

佐渡に帰るとむやみに眠たくなるのはなぜでしょう。刺激が足りないせいだろうか。

一方で音楽を好きな音量で鳴らせるのも一人暮らしのいいところ。先日お友達さまのお宅拝見に伺って、なんだか隣近所を気にしながら生活をするのは大変だよなぁ、と感じました。東京とはそういう街だから。かたや、今現在廃墟みたいなところに住んでいるので音量はさして気にしなくてもいい。
おばけとか、まったくうるさいなあ、と眉をひそめているかもしれません。いたらね。
響き渡るスネアの乾いた音と裏のお寺の木魚の音が、時折セッションをしてます。
素敵でしょ。こういうの。

池袋のリブロでは売ってなくて、四条河原町のジュンク堂で見つける。福岡の出版社だとあんまり出回らないもんだろうか。

えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる 新装版
小山田 咲子
海鳥社
売り上げランキング: 150,055



小山田咲子さんという女性に面識はもちろん、特段の知識もない。小山田壮平くんの姉であるということくらい。才媛であったこと、将来を嘱望されていた人であったこと。そのくらい。本の中の写真には、チャーミングな女性が写っている。
本書は2003年から05年にかけての彼女のブログの採録/抜粋集であり、昨年リイシューされたもの。そんなことで、ひとの日記を覗くような気持ちで、そこはかとない背徳感を覚えつつ、読み進めることになる。

どこにでも居そうな女子大生の日常が綴られていて、彼女の文才を堪能するというよりも、活発な女の子が跳ねまわる様を鑑賞する感じ。彼女はたぶん僕よりも2つばかり年下で、そのころの社会情勢について触れられているのを見て、当時を思い出したりもした。
二回目のイラク戦争や9.11。ああ、そうだ。僕らはそんな時代を過ごしていたな。このころ感じていた不安や恐れや憤りは、なんだか雲散霧消してしまった。今は新しげな、なんやかんやを抱えて生きている。10年という時間とはつまり、そういうことなのだろうか。

時折、はっとするような言葉が無造作にごろりと転がっていて、原石のように鈍く光る。きっときちんと磨き上げられたものは、しかるべきところに出ているのだろう。ブログとはしょせん、単なる日記なわけで。
そんなことで、いまさら僕があれこれいっても仕方ないので、タイトルの「えいやっ!と飛び出す あの一瞬を愛してる」という言葉について。これはエントリー中の言葉だ。
冒頭で鴻上尚史も触れているけれど、これだけの行動力があるひとが、そもそも旅に出るのが不安で、向いてないと語る不思議。面白い。


ベトナムに行く前に、目黒の映画館で「七夜待」という映画をみた。タイトルに惹かれて。ストーリーそのものに惹かれることはほとんどなかった。ごめん。たぶんコンクリート・ジャングルに疲れたOLさんとかが見るといいんじゃないかな。タイ式マッサージとかさ。
主人公のハセキョーがタイの田舎を汗だくで息せき切って走ったり、ナイトマーケットで遊んだり、ぼんやりと雨空を見上げるシーン。妙に印象に残っている。
暑くて、湿度が高くて、埃っぽくて。むっとするアジアだ。
彼女は今この瞬間、とても生きているだろう。映画を見ながらそう思った。

僕はベトナムでそれを手に入れたか。ハチやマンゴーアリに噛まれながら森のなかを這いずり回ったときに少し感じたかもしれない。
でももう少し、あと少しの勇気が僕にあったなら、もう少し違ったかもしれない。
結論としては、よくわからない。


なんだか逡巡したりして、でも、ええい、ままよ、と外に出て行くのは決して100%ウキウキした心持ちじゃないと思う。「愛してる」のはたぶん、後から振り返った視点。旅で得た発見や収穫を携えて、「飛び出すこと」を見つめなおす。そして彼女はまた、旅に出る。
「小さな一歩目の踏み出し」を切り取って抱きしめるようなこの言葉は、強烈な「生きている感覚」を僕に与える。
これはもう、溢れかえっとるね。ただひたすらに、眩しい。


たとえば本書を枕歌に、来るべき若者たちが順調にいろいろとオモチロイことをしてくれることを、僕は心から願っている。
苦情があるとすれば、彼女がずっと24歳のままだということで、それはいくらなんでもズルいだろうということ。それくらいだ。