2011年6月28日火曜日

さよならハノイ



ハノイ生活は本日でおしまい。
あしたから1ヶ月くらいホーチミン生活。
ハノイの感想。あんまり私的な時間がなかったから、難しいな。
一番感じたのは、古いものと新しいものが
入り交じった街だということ。



変化のスピードがここにいる人たちが
ついていけないくらい早い、ということ。
汚い空気のせいでマスクを装着しながら乗られる
バイクの数や、街路に屋台のフォーの残滓を
ポイと捨ててしまうライフスタイルなんか。




車の数もかなり多い。でも、
10年前は車なんか走ってなかった、という。
僕が20歳のとき車が走ってなかった世界を想像する。
そりゃ、ついていけない気持ちにはなる。
生活様式だけが変わってしまい、
生活習慣が取り残されている世界。
なんだか落ち着かない気持ちになる。

古びているものだけが順調に古びていて、
それが妙に僕の心を落ちかせる。
旧市街あたりの木々は中心部とは
思えないくらい大きく成長していて、そこだけ見ていればすごく静かな佇まい。
まあ、実際はクラクションでうるさい。
車がいなかった時代を、少し想像する。だいたい、イメージと合う。



今日は二輪の講習で、ハノイ郊外へ。
そこで見たのは広大な工業団地と農村風景。新しいビルの建設ラッシュと広告看板。
街が、どんどん拡大している。

こんな高層ビルなのにこんなほっそい鉄筋でOK?とか、こんなあっついのにコンクリ打設時間大丈夫なの?とか、些細な疑問はそれなりにあるんだけれど、とにかく雨後のタケノコよろしくビルが生えつつある。

だんだん、生きているのは街そのものじゃないのか、と思えてきた。
周囲を吸収しながら、どんどん大きくなる、意識のない生きもの。そんな感じもする。
その生きものの中で生きる人や木はそれなりにやっていくんだろうな、
という確信めいた気持ちもある。それだけ彼らはタフだ。まちがいなく。


不安なのが、街という生きものも、人という生きものも、
お互いについて無関心すぎやしないか、というところ。
教条めいたものをいうつもりはない。なんかうっすらと不安な気持ちになるんだ。

2011年6月26日日曜日

なぜハノイに来て

こんなことなのか、ということではあるんだ。
ふっと、思い出したから。備忘録的に。


ちょっと昔の曲を聴く機会があったので。
Limp Bizkitの3枚目、だったっけ。2003年。
8年前、ってと大学院のころだ。計算が合う。
向かうところ敵なしの彼らが墜落した記念すべきリーダートラック。


「シャングリラ」という言葉が周囲で流行していて、なぜか想起。
見返してみるとシャングリラとはおよそ関係のないこともわかった。
なんでこの曲を思い出したんだろう。


"Eat you alive" Limp Bizkit 2003


林の中でライトがつくから、かもしれない。単純だな。
ライトがつくことによって、
林(けっこうな疎林だったけど)という場が変質するから。

怖い場所から、怖くない場所に。
人がいてはいけない場所から、人がいてもいい場所に。
猟奇的な場から、パーティー会場に。
少しだけずれる。場所を移動することなく。

彼らが逃げ出した後の、ガランとしたライトに照らされた空間は
「場」そのものは、ずれたまんま、そこに残っていることを示している。
音楽が消えても場は残る。お祭りのあとのよう。
ライトの明かりによって空間が維持されているから。
音楽はトリガーではあり、余韻である。
きっとコンセントが引き抜かれた刹那、この場は消えるんだろう。

僕は別に難しいことをいっているわけではない。
自明なこと、見たままのことを記載しているに過ぎない。

人が交歓できる場所に、暫時的に、たまたまなっているスペース。
この風景が割と好きなのかもしれない。





MI2のテーマをはじめ、「ヘヴィロック」というジャンルは
彼らのためにあったといっても過言ではなかった当時、
僕は彼らが大嫌いだったと臆面もなくいえる。
そもそもヘヴィ・ロックってなんだよ、バカ、ってことであり、
ダンスフロアにかかるロックってなんだよ、バカ、ってこと。
クロスオーバー、としたり顔で話す評論家を張り倒してやりたかった。

音の重さや硬度は自在に作り出すことができる。
個人の技量とは関係なく。個人の技量に拠っていた時代もあったんだが。
彼らはあだ花になることを宿命付けられた、寵児だった。

でもね、
負けるべき戦いにきちんと負けた彼らは、ちょっとかっこいい。
最強だったころのよりもこのレコードが好きなのはそのせいだろう。
そしてこの曲は、ちょっとスペシャルな雰囲気が、確かにある。

2011年6月24日金曜日

@ハノイ

なんとなくハノイ3日目。

暑さ、湿度、熱気、臭気。毎日が縁日のような感じ。
湖や川はよどみ、絶え間ないクラクション、スゴイ数のバイクと排気ガス。
不思議と多い緑とのコントラストが妙に鮮やかだ。

木々の緑はきっとは街を覆い尽くそうと企んでいる。

放っておいたらアンコールワットみたいになるかもしれないけれど、
残念ながら、ここにいる人の営為はそれを許さない。


活発すぎる人々が緑とせめぎ合っている。
それが不思議なバランスで並び立っている。
息苦しいくらい、この場所はたくさんの「生きもの」がいる。

この息苦しさが、僕が「違う場所」にいることを教えてくれる。
そしてそれは、全然悪い気分じゃないんだ。

2011年6月19日日曜日

出発します。

明日ね。


荷物が、多すぎるのか、これは。やっぱり。

国内線の移動を考えると多すぎる。
しかし、僕の足の短さを考えると、きっとベトナムで
パンツは買うのが大変だ。
どーでもいいことで最後は悩んで現在前泊@成田。

なんだかあと少しで日本からいなくなることが不思議だ。
二年間もいなくなるんだって。不思議だ。
なんだか、佐渡にはウィスキィを片手にたらたらしている
自分がいるんじゃないか。パラレルワールド。
考えるほどにそんな気がしてくる。

行く前と行った後で、僕の中の何かが変わっているだろうか。
変わることについて、何か怖いような、そうでないような。

想像がつかないことは想像しても仕方がない。
うまくいくといいねぇ。

2011年6月18日土曜日

納得のいくことと

いかないことと。

なんでこんな風なんだろう。

誰が、どの立場で、何を代弁しているのか。
「僕ら」とはいったい誰のことなのだろう。
誰がその「僕ら」を代表しているのだろう。

「僕ら」を代表せざるを得ない人がいて、僕らは「僕ら」を攻撃する。
そのような人はどんどん痩せていく。
こんなことって、とてもせつない。
せつないけれど、僕らは攻撃せざるを得ない。

彼らを労りたいけれど、彼らの考え方は一面において違うとも思う。
そして彼らは結局のところ「僕ら」なんだ。
無意識のうちに僕らは自分の身を削っているんだ。

そんなあたりまえのことに。

僕らが本当の「僕ら」になるためには。今は、あまり考えられないや。

2011年6月16日木曜日

池上へ




この5月から6月の東京は素敵な時期だ。
木々は雨を吸込み、勢いを増していき。
東京が一瞬、緑に飲まれそうになる時期だ。

池上はずいぶんネコが多い街で、歩いていると楽しい。
オマエなんぞしらぬ、という風情ですりすり寄ってくるのは
なんとも愛らしい。



キャスターが手に入らなかったので
マイルドセブンを墓前へ。そしてもう一本、火をつける。
しばし、静かな時間を過ごす。
祖父が愛用していた革のシガレットケース。
中身の銘柄はなんだったんだろう?
紫煙をむこう、濃くなってきた若葉の青が妙に目に鮮やかだ。



解釈の都合が良すぎる僕は、祖母の退出すら祖母らしさを感じてしまう。
抜かりがないところが、実に彼女らしい。
しっかりと着物を着こなして、台所に立っていた彼女の印象。
なんでばあちゃんちは白味噌のお味噌汁だったんだろう。


20年ぶりくらいに揃った二人から、じゃあね、と言われているように。
じゃあね、と僕も言いかえす。

2011年6月13日月曜日

会員なので



FoEは原子力のこともやっていくらしい。

何回も話題にのせておいて、またいってしまうのだけれど、「落としどころ」をどこに設定するか、ということがいつも気になる。対立図式そのものがあまり好きではないのだろう。同時にあまり生産的な行為ではないのではないかとも考える。

僕は意外に常識人なのだ。僕の限界はたぶんその辺にある。

多くの対立図式はそもそもそんなに対立していない、というか相手を撃滅することを意図していない、はずだ。相手を撃滅してしまうことが目的に転化してしまうことを、僕は恐れる。僕が常に冷静であるということではなくて、図式そのものが導いてしまうに思われるんだ。対立図式のわな、というか。

子どもを放射能から守るのであれば、避難させるしかない。汚染土を埋めたり浄化したりというのは「子どもを放射能から守る」ソリューションではない。似てるけど。明日中にすべての学校でできるならソリューションとして認めたあげるけど。

ただ、実際問題、なにがネックになるのかといえば、それはコストだ。子どもだけを疎開するのでは済まない。親も含めた家族の集団移転のコストはいったいいくらになるのか、想像がつかない。問題になるのは、あるいは反対側に立ってしまうのはそこなんじゃないか。

文字にしてしまうと身もふたもない、ことだなと思える。
でもその程度のことでしかないのだな、とも思える。

そう考えてしまうと、考え方の順序だけしっかりしておけばあとは勝手に落ちていく話ではないか。順序とはコストと命はどちらが大切か、という問いにすぎない。つまりコストをかけて避難させたほうがいいでしょ、という合意があればいいんだ。

アプローチとしては、署名活動でもいいのだけれど、公的関与で避難を実施させること、その代わりその財源については国債なり増税なりで国民が負担する。そのような主張をすればいいのだと思う。せっかく20ミリシーベルト問題の根拠をひっぺかしたんだから話は早い。
「子どもを守る」ためであれば、どんな高額なコストになろうとも、それはきっと高くない。いまさら「原発をつくる」よりははるかに合意の得られる意見だろう。


2011年6月11日土曜日

散髪しました。

2年間違和感がないヘアースタイルとはいかなるものであるか、
美容師さんとじっくり話し合った結果、やっぱボウズだろ、
というまっとうかつ雑な結論に落ち着いた。まったく残念なことだ。
兄さん白髪多いっすね、とまったく残念な美容師さん。
そりゃね、ストレスだよ。。

訓練はおしまい。


長いような短いような二ヶ月間でした。
こんなに若い人々と一緒にいることは、就職してこのかた皆無だったから。
彼らの熱気に圧倒され、押されていくような感じがしたね。
確かに彼ら、あるいは僕らは特別なんだ、と感じることができた2ヶ月間でもあった。


客観的にみて僕は冷ややかなところが多い
人間です。
どんな軍隊にも旗が必要で、僕にとっても
もちろんそれは必要なもの。
別に誰がどのように考えようが構わない。
最初に立てた旗がどのように
ボロボロになるのだろうか。
あるいは2年後には違う旗が
立っているんだろうか。
まったくよくわからない。


少なくとも僕が何を意図していたのかを思い出せるように。
それが今できる一番の準備なんじゃないだろうか。