2011年5月22日日曜日

named

さしあたり僕の名前はフミアキという名前であって、それはブン、 
というものでも、ましてやビョン、というものでもない。 

 Goo Goo Dollsというバンドがいて、火がついたのは 
”The boy named Goo”というレコード。オルタナティブの暴風雨が 
ようやくやみつつある…97年くらい?確か?憶えていないや。 
 あんぐりーだったロックが、おずおずと再びメロディを手にしはじめて。 
要はふつーのロックに戻った最後/最初の人々、と僕ならば言ってしまう。 
"Iris"を再発しないのかな。あんなに素敵な曲だったのに。
↑ベスト版で再発されていました。よかったー。

"name"にしようと思ったけど、”Iris"。


このレコードのタイトルに僕は不思議な感覚を憶えたのでした。
名前は与えられるものだよな、という当たり前なことを。
それが善きものとも悪しきものともつかないうちから、名前は与えられる。
出来たての、よくわからない、やわらかくてふにゃふにゃしたものに、
名前を与える。そのふにゃふにゃさと不釣合いな、すごく硬い何かを
刻印するような、強い意思が"named"という言葉に含まれるように。
そして、名付けられた子はその名前が非常に不本意であるように。
本当はおれだってこんな名前いやなんだけどさ、と。
name/namedの間には不思議な機制が働いているように思えたんだ。



ということで今回僕は森林経営という肩書きを与えられている。
日本で森林経営してました、っていったら社長かボンボンのいずれか、
若しくはその双方である確率が高い。
当方としては森林を経営した覚えはないし、残念ながら御曹司でもない。
単にそう名付けられただけだ。そしてここにはそんな人ばっかりいて、
個人的になにやら面白い。
「森林経営ってなにするの?」「よくわかんない」そんな感じ。

「所詮、名前なんてものは符牒さ」と、うそぶいてみせるのは
実にかっこよい姿で、案外それでいいのかもしれない。
「名付けられた子ども」としては、それ以外やりようがないようにも思える。
「名付けられた子ども」が何をするかは、大きくなったその子が教えてくれる。 かもしれない。
大人っていう生き物はいつもずるい。

名前をもらい、それを名乗ることにゴリッとした違和感があるだけ。
新採用のとき、技師です、と名乗って勝手に赤面したのをふと思い出す。