2010年12月19日日曜日

ymene

17.12.2010 目黒パーシモンホール 
たぶん今年最後のライブだな。高木正勝をみるのは初めて。 
ドリーミングなエレクトロニカを鳴らすヒト、というイメージだったけれど 
ピアニストとしての彼は意外に打鍵音の強い、アタッキーなプレイヤー。 
その上、椅子の上でくねくね踊ったり立ち上がったり。アクティブ。 
もっと神経症みたいなヒトなのかと思ってたから。 
出音の強さと、曲間の天然ト/途中で靴下を脱ぐ/手汗を上着で拭う等の 
素行とのギャップが面白い。 


今回はymeneは「夢の根」がコンセプト。 
美しかったり激しかったりするピアノの音を背景に後ろのスクリーンで流れる 
断片的な映像がコンセプトを象徴しているようにも見える。 
映像をみると、僕は無意識にストーリーを求めてしまうのだけれど、 
脈絡の無い、ぶつ切りに流れる映像はそれを許さない。 
時に美しい映像が流れ、時にグロテスクな映像が流れ、「物語化」を拒否する。 
時折現れるピアノを覆わんばかりのSEも聴衆が音楽に身を委ねさせるのを 
許さないかのようにも思えた。 

でもね、夢とはそういうものかもしれない。 
無秩序で無軌道で、散らかっていて、夢から覚めるとあれはなんだったんだろう。 
たくさんのきれいな、あるいは恐ろしいだくさんの欠片を見せることが 
彼の意図であるのであれば、たぶんそれは成功している。 
夢とはつまり、僕らが手にしている素材なのかもしれない。 
見たいもの、見たくないもの。きれいなもの、醜悪なもの。 


アンコールはリクエスト大会。 
「それ難しいんやで」「それ昨日やった」「それ映像もってきてない」等。 
"wave"と"bloomy girls"と"girls"をやってくれた時点で僕は大満足。 
"girls"はドリーミーな映像とかわいらしいピアノがよく合っている。 
あれ、"new flat"やったっけかな。 


面白かったのは、曲を始めるときいくつかの鍵盤をピコピコと叩いて、 
まるで音を捜しているように見えたこと。 
「ちょっと中断、ピアノと仲良くなりますね」といってぽろぽろあそぶ様は 
リハに立ち会っているようでもあったし、婦女子はきっと「ファニー。」と思っただろう。 
本人もいうように「素の」高木正勝はきっとああいうヒトなんだろう。 

同時に彼は音を散らかす。散らかした音の中から、「正しい音」を選ぶ。 
細かい線を何回も書き重ねることによって輪郭を明らかにするような。 
エレクトロニカという手法そのものがそれに近いけど。 
ばらまいて音を捜す。選んだ音が次の音を導く。そんな印象。 
一本の太い線をぐぐいと書けない僕は、彼のそういう仕草に 
なんか親近感をもってしまった。 
あー音楽は作れないけどね。あくまで性格的な話として。 



「世の中の31歳はみんなくねくねしているの?」と、 
僕のほうを見て放たれた疑問については、断固、否、とお答えしよう。 
あれはきっと高木くんだけです。

2010年11月6日土曜日

つぶつぶ放談

ラジヲ生活続行中。ラジコはいつになったら新潟にくるのかしら。 

国会はハチを突いたような騒ぎになってますね。 
そのちょっと前はすべての質問者が「尖閣諸島は日本固有の領土ですが」が 
枕詞になっていてちょっと面白かった。 
尖閣諸島は日本固有の領土ですが僕はもう眠くなりました。 
ほんとうに秘密にしたいことは、誰にも言わないことです。 

それにしても代議士さんの言葉の使い方が悪い。 
狡猾でひねくれていてほとんど罵詈雑言。聞くに耐えない。 
議論と悪口言い合い大会を混同しているのかしら。 
代議士になると性格が悪くなるのか、性格が悪いから代議士になれるのか。 


僕らはだんだんとつぶつぶになって、砂質化している、とよく言われる。 
こりゃマズイと、きずなだの協同だのゆいだのもやいだのとも言われる。 
この種の試みがうまくいくのかどうかは知らない。 

僕らがつぶつぶになったのは、昔、僕らひとかたまりのモノであったときの 
悪い思い出があるからだ。僕はそのことについてよく知らないけれど、 
少なくとも体育会系という人種は大嫌いだし、体育教師などみんな 
クビにしたほうがよいと今でも固く信じている。 
かつてひとかたまりであったとき、あるいはひとかたまりであったからこそ 
自らを思い切りよく投擲してしまった。 
また、ひとかたまりであるはずだったのにもかかわらず、あるつぶは 
ひとかたまりとしては扱われなかった。そんなことがあった。 

そういうふうにして、僕らはどんどんつぶつぶになった。 
つぶつぶであると、さしあたりひとかたまりとしての振る舞いは求められない。 
僕としてのつぶと、となりのつぶとはそりが合わなくてもお互いが等価な存在。 
そりがあわないこと自体はもちろん面白いことではないが、 
それはこちらもあちらも同じこと。 

だから極秘事項や機密文書をyoutubeにアップされても仕方がないと思う。 
僕ら一枚岩じゃないんだもん。つぶつぶなんだもん。 
ダメっていえるはずないじゃない。 
さらに面白いことに、この種の告発はさらに僕たちをつぶつぶにしていく。 
きっとコピーキャットはいくらでも出てくる。 
ただ、この行為をもって僕らがひとかたまりになるかといえば、まずならない。 
小麦粉をふるいにかけるようにして、きれいにこなこなになっていく。 
でもキレイで迫力のある動画でしたね。 

ちなみに国益を損なう、と凄むヒトは好きではない。 
つぶつぶをひとかたまりにしてやろうという野望が透けてみえる気がするから。 
ハスに構えた言い方をすれば、「国益を損なう」と指弾する行為によって 
そういうヒト(でなくてつぶだった)たちは利益を得ている、と 
つぶとしての僕は思う。 
威勢のいい代議士は自分が直面することがないからこそ、威勢がよいのである。 
書いていて実につぶつぶ的な意見だな、と思った。 


まとめると、つぶつぶな僕らは協約的な合意の作成がとっても困難であり、 
昔のひとかたまりのモノに戻ることなど、もう不可能なのではないかと思うわけだ。 
じゃあなにが起こるかといえば、たぶんなにも起きない。 
なにも決まらない、お互いに足を引っ張り合う、ハキとせずうだうだしている、等。 
ただ、この一年間でもこの国は致命的なエラーを犯したか。 
エラーを犯すほど動けてないという意見が正解かもしれない。 
欲を言えばきりがないけれど、そこについては素直に評価していいと思う。 
だれがやってもそうなる。そういうユニークな統治機構なのだという理解はいかが? 


機密性が保てない。それはもう立派なキャラクターだろう。 
そんな国は核武装なんてできないだろうし、ステルスとか売ってくれないと思う。 
全部ひみつしゃべっちゃうから。 
隠し事できないタイプなんだ。 
でもそれが安全を担保しているような気もするな。つぶ的には。 
おしゃべりで八方美人のブリッコ。ツンデレではないな。悪くない。 
日本鬼子を萌えキャラにしてしまう。そんな脱臼加減は秀逸だと思う。 
ほんとメディアリテラシーが高いよね。近ごろの人って。 
毒づくのが仕事だと思っている代議士に爪の垢でも飲ませてやればいいと思います。 
つぶ的にはですが。

2010年8月29日日曜日

責任がある

「民主党に投票した人は、結果に対して責任をもてよ、最後まで支持しろよ」

と、友人がクダを巻いていた。彼は、霞ヶ関で働いて居て、しかもその時は割と酔っ払っていた。
彼の忙しさがどれほどのものなのかよく分からない、大学時代スタミナの塊のようだった彼は
すごく痩せていて、確かに疲れていた。

僕は責任を持つ、と応じたよ。投票したもんね。これ以上はたまらんとおもったからね。


僕が民主党に投票したのは、たぶん政局政局の繰り返しにウンザリしたからだと思う。
自民党内でくだらない足の引っ張りあいをして、グジュグジュと決めたんだかよくわからないことを言う。
君らはもうよい、とおもった。ちゃんと政策を話し合えと思った。
だから投票したんだと思う。
そういえば、選挙権を得てから自民党に投票したことないや。はは。


思うことは二つくらいあって、一つはやっぱり選んだ結果に責任をもつべきだということ。
くるくる支持を変えるということは、なにも変えたくないという意思表示にちかいのではないか。
負けるにはそれにふさわしい要因が確かにあったことはまちがいないけれど。
くだらない無用な政局を作り出しているのは、僕ら自身ではないか。

そして代表戦は結構なことだけれど、衆院選を経て一年間、君らはなにもしていない、ということを言いたいな。
本当になにかを変えるような決断を果たしたのか、それが実績か。そう問いたい。
結局、君ら自身も政局と戯れているだじゃないのか。
それじゃあ自民党とまったく変わらない。
なにもしていないくせに3回も首相が変わるような政党だったら、さすがに愛想つかすね。

2010年8月24日火曜日

ワイヤレスキーボード

使って見ました。
現在Ipadを使用中なんだけれど、入力操作の違和感が解消されなかったので。
タッチ式のキーボードは場所を取らない。それはたしか。
でも、短文ならまだしも長文を書くのはとってもしんどかった。
非常に好調ですね。これ。
いい感じ。

2010年8月23日月曜日

フジフリカエリ10


天日干ししっぱなしの寝袋をしまう。ようやくフジ終了ということで。
また僕の車には第1駐車場の入場券が乗ってるけどね。残り香。

昨年は酷い雨だったけど、今年もフラれちゃった。
昨年豪雨で通行止めとなった、ホワイトステージへ至る仮橋は盛土して高くなっていた。盛土周囲はトンパックで補強し躯体は鋼板。仮設工というよりは本設。僕の現場ではまずできない。お金ないもん。
いい仕事してるね。でも高いぜこれ、という土木トークをいっこ主任と。
グリーンステージにクラッシャーランt20で敷いたらもっといいと思う。ちゃんと保安林の作業許可を提出いただいているとの掲示があったので、こちらも安心してモッシュできるというものです。


以下順不同

○them crooked vultures
デイヴ・グロールのドラム。
キットを「ぶっ叩いている」感じが非常に心地良い。繰り出されるアタック音は、今回聞いた中でダントツでかい。にしてもデイヴ先生。リストの強さというか出音の大きさが規格外。よくあれでバックコーラスとれますね。

兄さんからもらったレコードを聞いてみると、そこまでデイヴのドラミングは印象に残らない。とはいえタイトだしScumbag bluesのスネアの音は凄い。
けれどライブを見てないとそうは思わないだろうな。ジョシュ・オムのVoよりもデイヴのコーラスの方が声がクリアでして、そこはさすがのフーファイなわけだな。
フーファイでもデイヴが叩いてデイブが歌えばもっと説得力が出るかも。

もう日本に来る機会はないと思われる(観光ならあるか)
御大ジョン・ポール・ジョーンズもさすがの演奏を披露。見かけは老夫。ベースを下げると伝説の男。キーボードを弾く姿はやっぱり老夫。
こちらはレコードでこそ、強くつえっぺりんを感じるのです。非常に豊かなベースラインで楽しませてもらいました。いいかげん再結成しちゃえよ。


○atoms for peace
フリーのせいでファンキーになってしまったこのバンド。the eraser という繊細で複雑なレコードに肉付けがされた印象。血の通った演奏、これが本当の姿、なのか。
とはいえ、レコードにはまるで精細な静物画を思わせる冷たくて、鋭く切り取られたような風景が収められていて、それはそれで圧巻であると思うんだけど。

分かる部分と分からない部分で揺れながらみた今回のステージ。個人的に正直Radiohead は時に不快だ。理解できない部分が多い。聞いててイライラしていることもある。理解できる部分は共有できる部分なのか。あるいはセルアウトされている部分なのか。

僕は退屈している時間はあっても、飽きている時間はない。
打ち込みの鎧を脱いで剥き出しになった”video tape”を聴いて、確かでやわらかな
質感を感じることができた。とにかくトムは子どもみたいに楽しそうだった。
僕が40歳になったときにこんなに楽しそうにしていられるといいと思う。


○Jamie Cullum
彼のHigh and dryが聞きたかったんですよ。ああ、聞けてよかった。twenty somethingも聞きたかったんだけど、聞けて嬉しかったけど、もう僕はtwenty somethingではないから。
土曜はいろいろあって、やっと行動開始が午後4時。日中の強い日差しが陰りはじめた時間帯にジェイミー登場。ジャズピアニストとしての彼は、非常に現代なプレイヤーに映る。
ビル・エヴァンス以降のひとつの潮流。ダークなフレージング云々。

が、ロックの耳で考えると、彼のフレージングは単にギターのリフなのだ。すごくいい意味で。職業ジャズピアニスト/シンガーは単なるロック大好き少年 でした。

ピアニストとしてのテクニックはもちろん凄まじいし、歌もうまい。終始無邪気でうれしそうな表情に婦女子はイチコロだろう。なにより本人の満面の笑み。ステージを全力で楽しんでいたので、こちらももちろん楽しかった。
もうちょっとやるぞーの(本人志願の)アンコールも素敵。踊りながら陽光を受けて飲むビールは格別に美味しかったよ。




○Local Natives
ライブバンド。
Voがフレディに似ているという話をしていて(口ひげね)、聴いてるとほんとにフレディの声に似ているような気がしてくるから不思議。あとでレコードを買ったけれど、レコードからは ライブでこんなに複雑なことをしているのは伺い知れない。
正直あんまりレコードの音も良くない。分離が悪い。

来年のアースセレブレーションで鼓童と共演したらいい。キレがあってボトムがしっかりしているライブで見てよかった。頻繁過ぎるパートチェンジ、太鼓たたきすぎ、4声ハーモニーをつけすぎ。

でも”Shape shifter”は佳曲。すごく練られている。激賞。
曲調は明るくないのに、なんか励まされている気がするな。


○Bell and Sebastian
申し訳ないが初見かつ初聴。
ベルはおそらくあのグラマラスな彼女であるとして、セバスチャンはどっちだい?あ、バンドなんですねというレクを受ける。Peace for atomsで個人的にはお腹いっぱいになっていて、
後は流しちゃってもと思いながら、なんとなくビール片手にホワイトに。予想以上に楽しめた。あんにゅい。いとろうたげ。そんな感じ。何かを思い出しそうな、かわいいメロディ。
Get me away here, I'm dying が僕は好きです。かわいい。2Dからもらったデータが多すぎて探すのに苦労しちゃった。曲調からは信じられない、このタイトル。



今年も楽しかった。
なんか僕らの周囲にいる人たちはいい雰囲気です。
ずっと前から知っている人も、初めてお会いする人も、
なぜか兄妹が揃うのも、全部が面白かった。
誕生日お祝いしてもらってとってもうれしかった。
ジャンパンとケーキありがとう。
なぜかホチキスをもらったのもうれしかった。
みんなでげはげは笑っている雰囲気が、僕はなんだかとっても大事です。
あそんでくれたみんな、ありがとう。

僕は来年行けるのかな。まだわからないけれど、
いつかのフジロックでまた会いましょう。

2010年8月21日土曜日

で、僕はどう違うんだい?

「 卵を支持するというのは、気分的なものではだめなんです。それなりの決意と、最後まで責任を取る覚悟が必要です。僕は地下鉄サリン事件の実行犯の裁判を聴いていて、そのことを強く感じました。この人達がやっとことはまぎれもない悪であり、許されないことだ、それでもなお僕は彼らの側に立ってものをしっかり考えなくてはいけないんだと。そのことで被害者の人に糾弾されたとしても、社会に糾弾されたとしても、その気持は変えられない。その気持が『1Q84』のなかにもずいぶん入っている。イスラエルのあの刃物が混じったようなぴりぴりした空気の中で考えたことは、僕がいま小説で考えていることにそのまま地続きでつながっています。もちろんここでけりがついたわけではなくて、僕はこれからもずっと同じように考え続けていくことになるでしょう。」

 「考える人」2010年夏号 新潮社 2010  村上春樹ロングインタヴュー  p98

 
 違うよな、それ、と思うことに対してどうしたらいいんだろう。
それは違う!といってみる。それもいいね。
ただ、そういった批判は「批判的であるムーヴメント」の中に回収されてしまう
無力感がある。いつもある。「批判的ムーヴメント」の本質は批判的であることだ。
僕がいまなんとなく思いついたんだから、僕が定義してしまおう。
とりあえず批判してみればいい。でも、その批判はムーブメントに回収され、
ムーヴメントの熱源に使われてしまう。消尽してしまう。それなんか残念だ。
それはある意味「壁」に与する行為になってしまうような気がする。

最初の「違うよな」の違和感が求めているのは、批判ではなく、
訂正であるような気がする。なんかうまく説明できないけれど。
であれば、求めるべきものはそうじゃない(より違和感の少ない)考え方だったり
姿勢だったりするのではないか。

ある種の姿勢を示すことというのは、責任が発生するんだろう。きっと。
言ったんだから、そうしろよ、と。
責任はめんどくさいのでいやです。と思う。めんどくさいもの。
じゃあ、自分の中にある違和をそのままにしておくのか。むむ。
僕には何が出来るんだろうか。

2010年8月14日土曜日

ひとまずは

よかったね、俺。
ということにしよう。

ちょっとさきばかり見てあせってしまう。
確定したことは確定ということで。
考えて見ると、 三年前の三月に上司と大喧嘩をしたんだった。
そのときは、絶対ここから出てやると思ったものだから。
ずいぶん時間がたってしまった。
そのときはno ideaだったわけだからずいぶんいろいろなことをした。
ほとんど形に残っていないけれど、僕もほとんどわすれているけれど、いろいろあった。
と思うんだよ。
まだ完成してなくて、ひっくり返される可能性も含みながら、
それでもよく頑張りました、と自分にいってあげよう。
今日ぐらいはね。

2010年8月5日木曜日

暑いから休みませう

暑いっていってもそれほどでもないと思っているのです。ほんとうは。
暑い、汗が出る時は、自分がなにか作業をしているときであるので、
何もしなければ、まあ、汗はしっかりかいているのだけれど、それほどでもない。
それほど不快ではない。

僕の場合はアトピー性皮膚炎なので、汗は猛烈にかゆみを増すので
猛暑日に僕に僕に作業をさせないで。
ベトナムいったらどんなだろうか、と思う。今年は海外旅行はしませんが。

今日言いたいことは、何も猛暑日に100歳以上のお年寄りを探さなくても
いいんじゃねえの、ということだな。例えばこれが半年遅れて、なにか致命的
な問題がでるか、といえばきっとでないでしょ。
生きている人は生きているし(熱中症に注意)、死んでいる人はずっと死んでいる。
違法に年金受給している人はわかり次第返してもらう。それだけだ。
だから目くじら立てることはないじゃない。なんで急ぐ必要があるのかしら。
暑いんだからさ。涼しくなったらやったらいいのに。
こんなに効率の悪い時期の仕事に残業代とか払うのが逆に市民としてムカつく。

2010年8月3日火曜日

佐渡→苗場→東久留米

絶賛夏休み中。
フジロックから帰省。
今年もしっかり雨に降られて、結構しんどい思いをしたものの、
まったく楽しいお祭であったと思う。
僕の足は偏平足である。たぶん、普通の人よりも使えれやすい。
女の子のショッピングに付き合うのが割と苦痛であるくらいのレヴェル。
友達の万歩計が35,000歩を記録していたという。
一歩60cmとして、ざっくり一日20kmくらいはあるいたことになるのだろうか。
これが3日として、60km。ほんとかな。けっこうな距離だけど。

東京は暑いね。みんな佐渡に来るといいよ。


2010年7月10日土曜日

まったく上手くいかない

上手くいったことがあったんだろうか、そういえば。
人事の人たちは頭が硬くて、しかもなまけものであるとのこと。

まあ、つまり。そういうボールが返ってきた。
納得はいかないけれど、とにかく返ってきた。
さて、どうしよう、とボールをみる。
ボールに答えが書いてあるわけではなくて。
誰かが答えを持っているわけでもなくて、
つまり、決めるのは自分なんだな。
歯がなりそうなくらいコワい。自己決定ってしんどいな。

2010年7月2日金曜日

にー

久しぶりになってしまった。
非常に仕事が忙しい。人生をすり減らしている気分。
いくつかのものごとが山場を迎えつつあり、
毎週どんどん戦況が悪化していく状況は、
心理的にひどいストレスになるということがよくわかった。

とりあえず一個は終わった。
あとは、何個だ。んーまあ、ボチボチだな。


ここ数カ月、ある種の賭けをしていて、それは野球賭博とかではないのだが。
プレイヤーとして毎日過ごしているような気分だ。
勝ったらごほうびがもらえるかもしれないし、もらえないかもしれない。
あくまで僕の心的描写として賭けをしている、という気分であるにすぎない。

プレイヤーとしての僕はとことん強気である。
だから、まだ降りていない。3ヶ月くらいずっとゲームがつづいている。
神経衰弱を起こしそうなくらいの強度があるといってよい。
再来週に大きな寄席がある。それを耐えればあと3ヶ月くらい、最後のゲームがある。

疲れているわけにはいかない。疲れてても倒れるわけにはいかない。
なんと最近忙しいことよ。

2010年6月11日金曜日

「Kings'Xは驚異的なバンドだ」



とビリー・シーンがIn rock誌でのたまうもんだから、
当時15歳の僕はナルホド、と思い、レコードを買いに行った。94年のことだ。


シッピングであると1ヶ月くらいかかってしまうのに 
いまはダウンロードで一瞬で届いてしまうから、時代は変わったものだ。 
でもね、僕レコードジャケットみるのが大好きなんですよ。 


で、King'sX。 


ソングライターの二人と、バンド自身の
都合3枚の彼らの92年周辺楽曲のデモ集を出すという
暴挙に出ている。しあわせ。
・Ty Tabor - "Tacklebox (Ty Tabor Demos Vol. 1 & 2)"
・dUg - "Songs from the Closet (Doug Pinnick Demos Vol. 1)"
・King's X - "The Bigger Picture (4th Album Pre-Production Recordings)"
http://www.molkenmusic.com/

聴き比べてみるととても面白い。
ビートルズ仕込みのポッピーさと構築主義的、立体的な曲の彫像は
gのタイのペンの曲であり、
ド・ファンクでグルーブが効いていて、それでありながら
なぜか寂寥感を覚える曲はbのダグの曲という分担。
やっぱりね、という感じ。ちょっとにんまり。
こうやって持ち寄ったのね、と考えるとちょっとほほえましい。

タイはポップでテクニカルな曲を書くけど、
声は素直で、薄くて高く、デモでは多重ハーモニーで補う。
ダグの声は深くてブルージーだけど、ノリ一発で単調な曲も多い。
まあ、彼ってファンキーだからさ。デモでもベースの音でけーよ。
バンドのデモは当時大流行のオーバープロデュースを免れており、
骨格むき出しで、オリジナルよりも聴きやすいのが面白い。


「早すぎたオルタナティブ/クロスオーバー」と呼ばれた彼らだが、 実際のところ、
オルタナティブと呼べる要素といえば、ダウンチューニングくらいしかなくて
今考えると少し不思議な感じがある。
タイのリフはヘヴィというよりも丹念に構築された印象の方が強い。
92年当時の”ローリングストーン”誌のレビュー「まるで目がくらむようなタペストリー」
という形容が、特に初期の彼らに関してはしっくりくるなあ、と個人的には思う。


94年以降の彼らは構築主義的な方法論から、直情的な方法論に転換してしまう。
識者からは「オリジネイターがムーヴメントに擦り寄る愚挙」と批判される始末。
B!誌からは66点を頂戴する始末。
シングルコイルの艶のある、どこかクールな音色は失われ、
グランジ・オルタナティブを表象する、あのささくれた音色に確かに変わった。


だから彼らについて考えるとき、どの時期を評価するのかが大きな問題なんだろう。
もっとも、僕としては転換以後もある種のうれしさがあった。
構築主義的な曲調が大きく後退した代わりに、ダグの声が全面に出てきたから。
虚飾を取り払ったあとに出てきたものは、開放され躍動する強烈なグルーヴと
深く暖かいダグの声だったから。
彼らは最初からこういうことをしたかったんじゃないか、と。
それはたしかに、Pearl JamとかNirvanaとかそういう人たちと近い音を鳴らしていた
のかもしれない。でも、だからといって彼らの演奏の価値を減じるものではない。


僕が大好きなのは89年1stのgoldilox。 

youtubeで探してみたけど、どれもオーディエンスの声がいっぱい。 
ダグもしょうがねーなー、という風。かわいらしい。 


皆さん声そろってますね。ハーモニーつけてますね。
いいなあ、ライブいきたいなぁ。


ついでに、ビリー先生を召還する。


動きも顔もオモチロイが、すごい演奏。
ビリーシーンはベースを「歌わせる」希有な人である。
それは彼が目立ちたがり屋なせいもあると思うが、なにより
彼の使用音域が基本的に高い(今回はソロなので特別高い)せいもある。
使用フレット位置がギターみたい。
これを見ていて、ダグが左利きなのにいまさら気がついてみたり。

これじゃあ、ようわからん、というひとはオリジナルを。
ファーストのころのダグは今よりも声が細くて、儚げなVoが秀逸。
アメリカ的、大陸的、フロンティア的、うまく説明できぬが。
な、美しさと悲しさを感じるのさ。
たぶんフロンティアの記憶をもつ人間にしか、ああいう音楽は作れないんじゃないかな。

2010年5月15日土曜日

ロングライド

今年もやってきました。ロングライド210。
体を動かすのはとりあえずはいいことだ。動かしたまえ。
僕は出場しませんが。でも自転車はいいよね。

ランニングはよくします。
5kmから先が気持ちよい、といつも思う。脳内モルヒネが分泌されているせいだろう。
初めてハーフに出た時に衝撃だったのが、ランニングって肩がこるっていうこと。
なんでか分からない。腕を振っているからか。あんまり振らない方だと思うんだが。
ナンバ走り、とか思っているので。個人的には。
この前、ひとりマラソン大会をして22km走ったとき、激烈に肩がこった。
足はそんなでもないんだけど、肩が痛くて歩いちゃった。
知らないうちに不思議な運動をしているのか?俺は?

不思議と調子が良いときは疲労も少ないしケガもしない。気持ちよい疲労感がある。
そして不思議と翌日調子がよい。実に不思議。
今日は9.5km。ipod君によると500kcalとのこと。
冒頭でいった、5kmからキモチイイ説にのっとり今年からチョコチョコ走るのではなくて
10km位を基準に走ることにしている。実際キモチイイ。5kmとあんまり疲れの差は
ないような気がする。
週末に10kmくらいずつ走る。さて、明日の調子はどうだろか。



昼間のちがい

僕の職場の事務所は4階にあって、西側の海に面している。まぶしいきれいな夕日を拝めることがあれば、怒濤の荒波が遠景として飾られることもある。ま、夏はたいらな海で冬はトゲトゲした海とか、そんな感じだな。

冬の海と夏の海を分けるのはなんだろう、と思って。あるとき、あ、冬の海じゃなくなった、と思う。それはなんだろか、と思う。
気がついた。冬の海は、水平線がない。水平線があるべき場所は、もやもやと雪なのか雨なのかがあって、天空のどす黒い曇天とつながっている。冬は空と海がつながる時期なんだ。暗い海と暗い空では、もはや不吉な予感しか感じられない。奴ら、徒党を組んでやがる、と思う。

まあつまり、ある日水平線をみたとき、その日が曇りであっても冬が終わった、と実感するのかもしれない。

2010年5月9日日曜日

連休の至福といってよい

ごろごろしながら本読むってステキ。


日本の製紙会社は大雑把にいって二つの会社がある。王子製紙と日本製紙だ。この二大グループは戦前、もともと一つの会社だった。財閥解体で細切れにされ、六〇年かけてようやく二つにまでなった。

ところで、なんでパルプ会社が財閥解体にあわなきゃならんのか。僕は今ひとつ理解できなかった。パルプ産業の始祖は、本当は渋沢栄一なんだけど満鉄あたりから脇道へそれ、実質的な母体は亜細亜産業/亜細亜パルプという会社であったという。国策会社というか右翼会社。現在ではなんとも理解し難い組織あるようだ。実質一社しかなくて、集中排除法なわけだから、いいのかもしれない。

イメージ重視で非常に恐縮だが、東京の東北部は僕にとってかなり怖いイメージがある。王子とか北千住とか十条とか。製紙会社が乱立しているあたり。埼京線で池袋より北にいくと突然さみしくなる。そのあたり。カントリーサイドオブトーキョーの出身だからか。

東京の古い工場地帯であり、あまり治安がよろしくないイメージ。でもこういうところは物価が安くて住みやすいらしい。緑ある都会を演出している府中とか、牧歌的すぎる東久留米とは空気が違う。就職活動で日本製紙を受けたときに建物は真新しさと、周囲とのギャップが妙に気になった記憶がある。

そして下山事件の舞台も北区の十条とか王子のあたり。僕、心霊にはあんまり縁がないけど(怪談話はスキ)、地霊・地縁にはけっこう興味あります。ゲニウス・ロキ。

「下山事件~最後の証言」柴田哲孝

児玉誉士夫とか田中清玄とか白洲次郎とか「戦後の日本史を代表する何したかサッパリわかんない人々」が列挙されるのがなかなか壮観である。読んでもやっぱりわかんない。

 僕が怖いと思う印象と下山事件の不可解さは割とあのへんの印象とかぶるものがある。ふと気になって犯罪発生率を調べたら、北区は普通でした。となりの足立区が大変なようですが。街の印象と履歴(にしては割と新しいものだけど)は割と気にするほうなので。科学的な視点とは言えません。殺伐とした東久留米市民は4万人くらいいるでしょうから。

思うのがエピソードを読むと活写劇のように不思議と生き生きとしていること。不謹慎の謗りは免れまい。ごめんなさい。「大陸から財宝をかっさらってきた」などという記述をみると、もはやワンピースのようである。こんなの海賊である。戦後、右だ左だとかいっているうちに定型化/定常化が進行した感はある。だから妙に新鮮に読めてしまうのかも。今ごろ白洲次郎が称揚されてみたりするのも同じ感じだろうか。定形に飽きちゃった。国境なんて超えてやるゼ、みたいな感じだろうか。同時に、定形が「越えられない壁」になっている印象も強い。フテンマとかね。あ、くどいですか僕。

ルフィは思想を語っているか。いいや。でもなお魅力的ではあって、海賊王になりたいかといえば、吝かではない。つまり、思想なんてホントのトコロどーでもいいのかもしれない。「「先生」は思想的にはゼロの男さ」(@羊をめぐる冒険)

でも、やっぱり血が流れるって現実ではすごく悲惨なことだ。基本的にルフィは超タフだからさ。フィクサーたちの行状が僕らには「よくわかんない」のは、ちゃんと語られてしまったらすごく身も蓋もないから、じゃないのかと僕は推測する。そもそも僕らはちゃんと「血が流れる」こともよくわかってないわけで。


2010年4月25日日曜日

出口が見えない

普天間のお話。

新聞も県も住民も強硬な論調、のように見える。
誰も折れるつもりはないらしい。
今や首相が一番慎重だと思う。
オーケー。じゃあ首相が公約を果たせなかったとして、
退陣したとして、今の強硬な人々はどうするつもりなんだろう。
賭け金をつり上げているのは、いまや住民やメディアだ。
うまくいく見込みがある場合はたくさんベットしてもよいと思うけれど、
あんまりうまくいかない見込みがある場合、ほらみたことか、といえるか。
メディアは言えそうだ。

もちろん沖縄の人々の受苦をそのままにしておいてよいとは思わない。
でも一括移設は可能だと住民や首長は思ってるのだろうか。本心はどうなんだろう。
うまくいかなかったとき、また他人のせいにするんじゃないのだろうか。
また、沖縄の人は「人のせい」にする権利があるような気がする。
他の県は「うちに米軍は来させない」で、守りきった権益は
素直に諒とできるのだろうか?
それを「生活や子どもたちのため」という理由ですっきりするんだろうか。
僕にはそうは思えない。
裏側には「沖縄は受苦せよ」というメッセージが含まれる可能性があることに
気がつかないんだろうか。

みんながダメだというのであれば、それはほんとうにダメになるんだろう。
そんな結論の出し方でいいのか。ダメにしたことの責任はダメだと言った人にもある。


最後に「難しい問題を片付けられると思うのが甘く見ていたということなのだ」と
のべた谷垣さんは、問いの立て方が完全にずれていると思う。
彼らが政権を担当していたときは、この問題は「埋めておく」方針だったはずだ。
処理の仕方に文句をつけるのは結構だが、問題として表出するかしないかは
まったく別のフェイズである。沖縄の人が受苦しているときに、人が死んだりしたときに、
自民党はなにもしなかった。
だから、明らかに現政権の姿勢のほうがこの問題について向き合っていると思うし
その意味で自民党政権は明らかに劣る姿勢をか示してこなかったと思う。
だから、(いまさら)手続き論的批判をする自民党に、薄ら寒い気持ちを覚えるほかない
わけだ。

2010年4月9日金曜日

目が痛い

久しぶりの現場だ。
晴天すぎて目が痛い。あたたかいね。まったく。

事前に今年度の植栽計画を立てておいて、本日は実地の再調査。
現地はマツ枯れ林分で、十分な再生が見込めないため、植林する予定。
植栽の際、大事なのが(というか、これしか大事なことはないのだが)植栽面積だ。
ヘクタールあたりで植栽する本数は決めていあるから、可動するのは面積しかない。

今回、空中写真でマツ枯れ林分をスクリーニングして机上で面積を調査して計画を
立てた。今回GPSをもってあるいて、結果は2haの植栽計画で1.5ha。
およそ75%の面積だった。
事前の検討が甘かった、というか期待込みで作成した部分もあったので。

75%という数字についていろいろ考え方はあるが、僕はそれほど悪くない数字だと思う。
なにより先に鳥瞰図が頭に入った状態で現地を歩くのだから、その後の調査のやりやすさは
段違いだ。
 経験した方がいるかどうか分からないが、まったく素の状態で現地調査する時の
心もとなさは何とも言えない。覚えるほどに歩き回っているのであれば、おおよその
面積の判別は可能であろうが、そのような時間はないし、かといって測量をかけるほど
大掛かりなことはまだできない時期において、空中写真(と、今回持ち歩いたGPS)は
おっそろしく有用なツールなのであった。

プラスマイナス20%で済んでくれるのならば大助かりだよ。面積小さいし。

2010年4月7日水曜日

まだ桜はさいていない

でもいまは雪割草と福寿草がみごろです。
本土とちがい、どうも数が多いような気がするな。
希少価値がないせいか、あんまりとる人もいない気がする。
どこにでもあるもんね。

桜は今週末とかに!

2010年4月3日土曜日

書かなければいけない2

別の内容なので。

ソラニンちょーみてー

書かなければいけない

とはおもいつつ。言いたいことは
その都度いっぱいあるんだけれど、文字にしないと忘れてしまう。
僕がこんなこと考えてました、っていう証のために
老後の楽しみのために、やっぱり文章はかいとくべきだ。


うちにはテレビがない。捨てた。情報源はインターネットかラジオに限られる。
内閣支持率が低下した、って聞いて、へぇ、と思う。なんでだろ、と思う。
Yahoo!でもGoogleでもニュースはもちろん手に入って、僕は割と新聞大好きなので
毎朝三紙ページは確認する(ウェブだと文芸欄が省略されるのが残念だ)。
+あらたにす、東京新聞、新潟日報(非常に構成が悪い)、くらいかな。
だから、何が起きたのか、おおよそのことは(それが大きな話題なら)目を通している。
だけど、記事の内容と社説では非常に違和感を感じる。
なんというか、その記事からこのように理解すべし、という理路に違和感があるんだ。
もっとほかの考え方があるんじゃない?と社説をよむと思うことが増えた。
まあ、隣のボタンを押した元大臣はしかたねぇな、と思ったけれど。

記事の示す事柄からは、市民の反応の微妙な空気感とか、
質感が伝わらないからかもしれない。
そう考えると、テレビのもたらす世論誘導効果ってけっこうあるのかな、と思う。
コメンテーターの発言とかね。無意識にしていたんだろうな、と思う。


うちのテレビがいなくなったのは去年の秋。衆院選の後くらいだと思う。
例えば普天間の問題で民主党がいいかげんだとか、野党の人たちはいう。
確かに着地点がよくわからないけれど、タイムリミットが迫っていて、
由々しき問題であると思う。

沖縄県は県外移設を求めていて、他県はいやがる。まあ当たり前だけれど。
何ごとにも入口と出口が必要で、いまのままじゃ宙づりになってしまう。



いくつか観点があろうかと思う。

まず、旧来の政権が継続していたと仮定して、普天間の話がここまで進展しただろうか。
語弊があるなら、ここまで問題になっただろうか。いずれはなっただろう。
ただし、前首相の政権ではなかっただろう。彼は、というか歴代の政権はその問題を
隠そうとしていたように映る。無言で沖縄のひとに受忍させようとしていたと思う。
「密約」問題で前首相は「知らなかった」と言っている。
彼は日本の宰相として「密約はない」と言ったその人だ。
好意的に受け止めて、彼は基地問題にまったく興味がなかった、ということになる。
議論の迷走はいただけないけれど、ここまで俎上にあがったのは政権交代の功、
としていいのじゃないの、と僕は思う。


「基地移転がうまくいかなかったら責任をとって辞職しろ」という発言が
あったが、そう言った本人が自民党の総裁だった。
前政権はこの問題を隠匿し、受忍させようとしていたのだから、
字義通りに解釈すると、自民党は沖縄県民より在日米軍を重視します、
というステートメント以外の何ものでもない。
別に辞職してもいいと思うし、今の首相がケリをつけたら
辞任になったとしても大金星じゃないかと思うけれど。
野党だから、与党を批判しなくてはいけないのかもしれないけれど、
そもそも、あなたたちは問題を解決するつもりがあったの?と聞いてみたい。


3つ目。基地の県外移設を決議したのはいいけれど。
仮に、県外移設が叶わなかった場合、沖縄の人は民主党を
恨むのだろうか。恨むだろうな。
では前政権が引き続いていたら?こんな問題が表出されることは、多分なかった。
だから、形式的にでも民主党を恨まなければいけない。
でもそれはちょっとずれている。その恨みについては、理解できるけど。
背水の陣、ということばはあって、それはそれで一理ある。
うまくいかなかったとき、どうするの?騎虎の勢い、という言葉もある。
沖縄の人のつらさを僕が理解しているなんて、とてもいえないけれど、
でも議論の仕方として、沖縄県は賭金をつり上げる手段を選んでいるのは間違いない。



誰も彼もが他責的な物言いで、その姿勢こそ僕はキライなのです。
僕には現首相が一番腹を括っているように見えるのです。

2010年2月21日日曜日

読了書籍

「邪悪なものの鎮め方」内田樹 バジリコ 2009
「税を直す」立岩真也 青土社 2008

後者についてはそのうち感想を記す。
それだけ読み応えのある本だった。
内田の本はお気楽に読めるので大好き。


2010年2月20日土曜日

おお、

変わった。びっくり。

へんな広告がいっぱい

アファリエイトっていうの?
おもしろいけれどちょっときもい。

勝手に僕の書いている記事を検索して
都合のいい広告を引っ掛けているみたい。
なんか、ディープエコロジストみたいな気分になるじゃないか。

なにか?じゃあ批判的なことを書けば内容変わるんだろうか?
カーボンオフセットは2012年以降にならないとクレジットになりませんよ〜。
とか?

2010年2月14日日曜日

箱根いったの。

佐渡から箱根にいくのはどれだけ大変かといえば、
6:10のバスで出発して、到着が13:00くらい
ということでお分かりになろうか。

新潟が寒すぎたため、保養、とおもっていったはずなのに
実は箱根のほうが寒いというのは想定外だったよ。
ほんとにさむかった。

たぶん普段、箱根はあんまり雪が降らないと思うんだけど、
だからこそ大涌谷の樹氷は新潟にはちょっとない現象なので
来てよかったな、と思った次第。

僕はだめな人間で、過ぎてしまってから
大切(だったはずの)ものに気がつく。
もう遅すぎるのかもしれなくて、それは僕の責任だ。
それにしてもこのうれしさ。この楽しさよ。
悪い?悪い。
でも僕は、その人と一緒にいるのが大好きなんだ。

2010年2月6日土曜日

まったく二日酔い

まったく調子がわるいこと。
せっかくの休日を無駄にしちゃった。

家にいるのは大好きです。
ぼんやりと古い本をよみかえしたり、音楽をきいたりして過ごす。
今日は大雪が降っているらしく、車を走らせるのもおっくう。
家でぬくぬくとしているのが上策。
三時まで寝てたんだけど、もう眠い。
おやすみなさい。

2010年2月2日火曜日

キャンプイン

てこんな時期だっけ。 赤星がスーツ姿で訪問っていうのはちょっと痛々しい。 全盛期の彼のプレーは未だに目に焼き付いている。 カットしまくって、どこに投げても打てる雰囲気や、 星野監督に頭をくちゃくちゃされているときの笑顔やなんか。 優勝がきまったとき、僕は学校の図書室で図書整理をしていました。。 まさかこんな今年とは本人も思わなかったんじゃ。 メジャーリーガー・シンジョーの穴を十二分に埋める その活躍からはじまって。
最初はビッグマウスっぽくてあんまりすきじゃなかったけど、
終わってみれば小さいからだで全力で駆け抜けた9年間であった。

選手としての晩年は満身創痍。
最悪の場合、車いすを送る君が車いすに乗る生活になると言われた彼の気持ちやいかに。

おつかれさまでした。いままで楽しかったよ。どうもありがとう。
いよいよ、世代交代が始まるのかしら。

2010年1月30日土曜日

思案②

ただし、弁済行為の振りをしながら、一種の関税障壁を構築して
しまう提案を途上国は飲むだろうか。

飲むね。
なぜならこれからの市場は中国を含めた途上国であるから。
最初に構想した関税障壁外で商取引が活発化するんだろう。
そうするとあんまり意味がなくなるか。

ひとつの考え方として、先進国の商品すべてにラベルが必要であれば?
簡単にいえば、先進国の商品は売りづらくなる。マーケットの消費者は
どちらでも選べるとしたら、安いほうを選ぶよね。
先進国は飲めないだろう。

じゃあ、ラベルの範囲を拡大するのは?途上国まで。
難しいかもしれない。しかし、ラベルの収益は途上国に分配されることを
考えれば、ありなのか。
途上国の資金は途上国に還流するし、先進国の資金は贈与として存在することとなる。

いいかもしれない。



2010年1月27日水曜日

面白くないトーク

につきあうのが苦手。
しゃべるなオマエ。と言いたくなるな。
冷たいですかね。

2010年1月24日日曜日

COP15とアイディア

あんまりちゃんと確認してないから解析不足は否めない。

森林吸収源に関する話題はほとんど聞こえなかったように思う。
それ以前の先進国・途上国間の隔たりを埋める方法を
模索しているようだった。

考えてみよう。
現在の気候変動の責任は誰にあるのか。主因者はやっぱり先進国だ。
だから、先進国は気候変動対策を実施する必要がある。
これはいいよね。
同時に今後、大きな排出が見込まれるのは途上国だ。
だから、途上国だって気候変動対策を実施する必要がある。
これもたぶん真だろう。

問題はこの切り分け方にある。
GHGは量であって、時間ではない。全体量が増加すれば、気候変動に
及ぼす影響は大きくなる。ここ数十年の先進国のGHG排出の寄与率は
ほぼ過半といってよいだろう。今現在の切り分けでみても加害者であろう。
しかし、これが20年後、30年後になってみると双方の寄与率が
変化する可能性が高い。
先進国は偉大なる「先鞭をつけた」かもしれないが、この先はどうなるのか
は誰も分からない(けど推定はできる)。
先進国は過去の排出の責を認めるのは(たぶん)やぶさかではないと思う
だろうが、今後のことを考えると途上国の排出抑制すべきだ、と考えているし、
繰り返しになるけれど、途上国は過去の責任をもって、まずは先進国で
自律的な解決をすべきだ、と主張しているわけだ。
視点がずれているから、噛み合ない。ようにみえる。


もっとも時間軸的な責任論を持ち出したい気持ちも痛いほどわかって、
そうしないと、GHGとともに途上国の成長もキャッピングされてしまう
ような気持ちになるから、ではないか。
実際に途上国が今回のような主張を繰り返さなくてはそうなったであろう
可能性は高いと思うし、途上国と先進国という関係性が維持されてしまう
蓋然性も高いと思う。


ただし、どこまでも責任論を持ち出しても、どこにもいけないことは
先進国にも途上国にも了解済みなんだと思う。
折り合いをつけるための応酬、と考えるのがここのところの会合なのではないか。

したがって、コペンハーゲン合意のようなこととなる。留意、ではあるけれど。
基本的には途上国への資金環流メカニズムを整備した上で、
途上国の参入を促す、という形だ。
原則論では上でみたような形式的な馴れ合いがどこまでも続いてしまって、
現実的には、たぶんこれ以外の方法はない。

こうなると、問題点はどこに出てくるか。
ひとつには、折り合いのつくファイナンスを先進国が提供できるか、
ということだろう。実質費用ではなく、出せる費用、ということになる。
もうひとつは、新興国の扱いだ。たとえば中国はファイナンスを拠出する側か
受け入れる側か。むずかしいところだ。



僕のアイディアは市場を使う、ということだ。
マルチカーボンアカウンティングの応用版。
すでにカーボンクレジットなどの排出権市場が確立されつつあるが。

①すべての商品に排出権価格を上乗せする。
認証みたいなもの。jisマークみたいな。
自動車におけるグリーン税制みたいな、星三つ、みたいなものを僕は想像している。

②排出量の多い商品はそれに応じて高額なクレジットを払う。
日本国内に流通する商品は、すべからく排出権クレジット購入済みのものとす、と。
こうなるとどうなるか。値段があがるから物価が上昇する。
タバコ税の1/100くらいで十分だと思うけど。タバコ吸いたくなってきた。。

・・・吸ってきた。つづき。
③この規定は輸入品にも適用される。ラベルを取得しないかぎり、
国内での流通を規制する。
このアイディアの肝はこの規制を先進国内で実施してしまうことだ。
アメリカでもEUでも先進国はすべて、この規制を実施すること。
④そして得られたファイナンスを途上国へ供与する。
その理由は上で述べたとおり、「先進国はGHG排出の主因者だから」だから。
先進国が割高な商品を購入する必要がある一方で、先進国−途上国間取引には
適用しない。
これにより、確保されたファイナンスを途上国へ送る。
キーポイントは先進国間で同一実施する必要があるということ。
ある程度の協調がとれないと貧乏競争みたいになってしまう。
同じクオリティの商品でも製造過程で排出量の多いものは比較高額になる。
これによって、先進国の製造/消費過程での排出量の削減に寄与することができる。

⑤ただし、先進国内で商品を流通させたい場合は途上国もクレジットが必要となる。
だから、途上国で生産された商品を輸入する場合にはラベルを購入する必要がある。
(・・・まずいかな。これについては検討)

⑥だから、ラベルを買う人は先進国のすべてと、途上国でかつ、先進国でものを
売りたい人、となる。

このアイディアの見どころは、WHOに引っかかるだろうか、ということだ。
「公正な競争」を阻害するのは明らかだけれど、それは、今までの加害的行為の
弁済である、といわれれば、どうなのだろうか。
もうひとつは、マルチカーボンアカウンディングと同様にクレジットを取引する
のではなく、商品そのものに上乗せしてしまうことだ。

ただし、弁済行為の振りをしながら、一種の関税障壁を構築して
しまう提案を途上国は飲むだろうか。
最終的に還流しますよ、で許してくれるだろうか。
新興国は先進国にモノが売りづらくなる、ということになる。
ちょっと検討を要する。

2010年1月22日金曜日

風がつよい

完全に備忘録とかしているこの板。
思ったことを書き留めるのに専念。わすれちゃうじゃない。

相川は風が強い。びーぶー強い。
強い風は風の音が高い。ひゅ〜ん。
ふと風がゆるんだときに、空気が緩むのがわかる。
相川は常に風が流れる。
強く吹きすさぶこともあるし、たゆたいながら流れることもある。
ふと緩んだ瞬間の空気がうれしい。
そこに、なんだかスペースができるような気がする。

スペースは余禄を生む原資だと思う。
なにか強い流れがゆるんだから、世界ができたんじゃないかな。
生物ができたんじゃないかな、と思う。
ああ、根拠はない。

早く春になり、天啓の余禄をうけて芽吹くときを迎えよ。
と願ってしまう。冬の国に住まう独特の感情なのかもしれない。

これからどうしよう。

課長にあう。

パーマかけて当社比2倍増のボンバーヘッドで8階へ。
修理工のあんちゃんか、ほんとに公務員か、中澤か、
などと諸先輩に揶揄されながら墓石の中を闊歩する。
いろいろな経緯があって、ご迷惑をおかけしました、と、デカイ頭をさげる。

ヒアリングが目的でいったんだけど、なんとなく足が向いて。
課長は「君は君の夢を追いなさい」と言われる。
不思議なものだ。なんであなたがそんなことを言ってくれるのだろう。
なんであなたが僕の背中を押してくれるのだろう。

今回の件では、僕の中では納得は全然いってないし、本当はもっとやりようがあった。
でも課長をはじめにたくさんたくさん、僕を助けようとしてくれる人がいて、
ごめんごめん、次は次は、がんばれがんばれ、とたくさんいってもらって
もう僕の不満のぶつけようがありません。
僕はすごくよい職場にいます。僕はやっぱり幸せ者です。


これは僕の夢なのか?
いいえ、といいたい。これは夢にたどり着くまでの過程です、といいたい。
いわなかったんだけど。
僕の夢。ぼくのゆめ。なんだろう。
よくわからないな。
僕はいつも、なにかの途中の中にあるような気がするな。
これまでもそうだったし、きっとこれからもそうだろう。
ずっと旅の途中です。
僕には、いまのところ住処はいらないし、鞄と音楽(とできればパソコン)が
あればそれでいいような気がします。
次の場所にいきついて、次の景色が見えたら、次やることがわかるんじゃないか。
そのような風に今のところは思っています。
僕にはその程度の射程しかないの。
次の塚をめざすのが、とりあえずの僕の夢です。
ああ、課長のいうとおりでよかったのか。

じゃあ、とりあえず、次はそこ、ということで。課長?

興味ないんだ

期待しているのは政策論議であって、不正追及ではない。
これを言うと僕の立場は一貫性がないことを自覚しなくてはいけない。
去年の僕は自民党に同じことを言ったかといえば、本当のことをいえば
たぶん違うと思う。民主党支持者なのだろう、今のところ。

政権が交代したあとで、本当に彼らの言っていたことを
研磨していくのがこれからの与えられた仕事だと思うんだよ。
なんで、関係ないことに時間を費やしているんだろうか。
バカじゃないのかと、やきもきしてしまう。

「検察の正義」というものがあるのかないのか僕にはわからない。
あるのかもしれない。ただ、いまいまの時点で彼らのやっていることは無粋だ。
次の幕を開けないという所行だ。「正義」であったとしても。
観客がみたいのはそんなことじゃないだろう。
「正義」が貫かれたとして、この後の舞台には、誰があがっているの?
誰をあげるの?それを決めるのが「正義」の味方、なのだろうか。
じゃあ、その「正義」ってなんなんだ?

不正追及を攻め手にしよう、なんていうのも情けないよなぁ、と思う。
野党になるとみんな一緒なんだろうか。元与党の気概を見せてよ。

2010年1月9日土曜日

次の一手

を考える必要がある。ちょっと飽きてきた。
僕はどこにいても、仮住まいな気分でいる。
いずれ出て行くのだから、荷物は増やしたくないし、
重たいものは持ちたくないし。
トランク一つで、というのがよい感じだ。

そのかわり、いつもそわそわする。
どっしりと腰が落ち着かない。
頭の中でいずれ、僕はここからいなくなるということを思っているから。
どこへでも行ける、という気持ちとはたぶんトレードオフの関係なのだろう。

目標、という言葉があたりまえになるのは
たぶん小学校高学年くらいだったと思う。
それまでは「めあて」だった。
めあて。目当て。考えてみると不思議な言葉だ。

もう少しそわそわしたい。
そわそわし続けるために、行き先を探さなくてはいけない。
本当のところ、行き先はどこでもいいのだ。
旅を続けることが、僕の、いまのところの希望なんだから。
婚期が遅れます。まったくまったく。



2010年1月2日土曜日

This is itみちゃった

ようやくですよ。大変遅くなりました。

横の人が泣いていたりして、感動的な作品だった。
あ、僕は泣いてないよ。汗かいたんだよ。
最初はフッテージなんかみてどうだろう?と思ってたのだけれど。

印象的なのは生きたマイケルの歌を聴いたということ。
生(映画なんだけど)のマイケルの体温を感じる。
バックの人の演奏はレコードではあんまりちゃんと聴いていないから。
ライトハンドが上手なGのおねーちゃんをはじめ完全な玄人集団の様相。
Dsの人とかすごくタイトでうまい。

マイケル本人は、その時、完全に準備ができていた。だから映画にできた。
ダンスはもちろん、声も僕の知っているマイケルのそれ。
あ、デンジャラスからだ。僕は。
どうもBadは出だしで志村けんが浮かんできてだめだ。
マツタケマンなのよね。。知らない人ごめんね。
インビジブルが最後だっけ?あの人、都合10年くらいは歌ってなかったような。
声って変わるじゃない?それがさ、全然ないから。
完璧なステージを作るための、他の演者のための準備、という印象。
というか、この映画のためのリハーサルのようにすら。


映画の中でマイケルはしばしば、愛、LOVEを口にする。
スタッフとかよく周りの人びとを祝福している。
僕は、ちょっと陳腐すぎやしないか、いいおっさんなんだから、と毒づく。
バックステージで彼がどれだけ汚い言葉を使うのか、僕にはわからないけれど、
映画の中の彼は、紳士、というよりもむしろ純粋。
そんな仕草が印象に残った。

ro誌にしばしば寄稿する一條さんは、妖精を引き合いに出し、
「信じる人がいなくなると、妖精は死ぬ」と述べた。
細かいディティル忘れちゃったんだけど。
このことは、僕の皮肉な視線を逆照射するものでもあって、
さらにいえばゴシップまみれだった彼自身をも逆照射するものであった。
まったくなんなんだ、と思う。

どっちがフェイクかとかはたいした問題ではなくて、
たぶんどっちも正しいということが問題なんだと思う。
ゴシップのネタを振りまきながら、愛を信じて周囲に伝えるマイケルと
アイロニーを手放すつもりもないのに、彼の言葉に心を動かされる僕自身に。


human natureで環境問題がすごく気がかりというマイケルのコメント。
シニカルな僕は月並みなことを、と思う。世界有数の浪費家が、と思う。
そういえば彼は(彼の歌も)いつも月並みなことを言っている。
リハーサルの最後の場面だろうか。スタッフと団結ガンバローのシーン。
「4年間で世界を変えよう。心配しないで。」と彼は言う。

彼は本気だったんだろうか。ほんとに世界を変えてくれるはずだったんだろうか。
うまくいかないところがみたかったのか。僕は。ネタにするつもりだったのか。
でもそうじゃない気がするんだ。
ちょっとアイデンティティがグラグラする経験。
久しぶりに頭を使っている感じがある。クモの巣はってた。

トムヨークみたいに、何も変わらないことを理由にして
何もしないことを批判する姿勢はすごく共感できる。
でもマイケルのそれは、ちょっと僕にはわからない。
根拠がまるでないし、思いつきのようでもあるし。
でもちょっと信じたい気がした。
なんで信じるに足るのかしらん、と思うのだけれど。よくわからない。
それはきっと、彼が妖精だったせい、かもしれん。

偽善者と偽悪者のどっちがいいか、についてパオロ先生は、
偽善者に決まっている、と答える。あたりまえだ。
とすると、あいつは偽善者だ、という指弾は有効か。無効だ。あたりまえだ。
偽善だろうとなんだろうと、善きことをしたほうがいい。


彼の「この後」がみたかったな。そんな感想を持ったよ。