2009年4月5日日曜日

おそらく日本で250人くらいしか見たことないと思われるが 水利科学という雑誌がある。普段は水文学系(「みずぶんがく」ではない) の投稿論文が載る雑誌である。 塚本良則、といえば母校の元先生でもあるんだけれど 「日本人は何故「山の木を伐ると洪水になる」と考えるようになったのか」という 刺激的な論考があった。 興味深いポイントは「緑のダム」という単語だ。 確認しておくと、森林が災害との関連性において果たしている機能は 「出水の平準化」である。森林とは摩擦物だ。 山に振った雨が抵抗をくぐりぬけることで出水量は量的・時間的に平準化される。 当然のことながら、森林は水量について人為的な調整をかけるものではない。 だから、利水や洪水防止を目的とした機能を森林に期待してもちょうどよくはきっとならない。 塚本は「緑のダム」や「森林」という言葉そのものが魔力を持ち始めている と心配している。ちょっとそうかもしれないと思うふしもある。 農業サイドからみて、古来山の神を祀るというようなことが行われていた。 たぶんその裏側にあるのは前に述べた、水量の平準化への経験則であろう。 その後、科学の発展により脱魔術化されて来たけれども、 ここに来て再魔術化されているのではないか、というのが言いたいことだと思う。 塚本は研究者だから今の現状を苦々しく思っているのかもしれない。 治山や砂防、水利などの人工施設は森林の代替物にはならない。 でも、同時にあまりにも公共投資ででっかいものを作ってしまうことにも抵抗がある。 残念ながら、公共事業に対して疑問符が提示されたいるから、
実は魔力を持っているのではなくて、公共事業が敬遠されているということに過ぎない、とも言える。 危険な匂いがするのは、魔術化された森林に「ダム」という機能を投げてしまう 可能性があることだ。 必要と判断されたものについてはその必要性に対して責任を持たなければいけない。 逆に「投げて良い」と(ひそかに)判断したものは大した必要性などないのかもしれない。