2015年5月31日日曜日

自然保護って何すればいいんだろう? 1はじめに


生を享けて30余年、池袋を長年徘徊しておりまして、本屋といえばリブロでした。
ところが、もうすぐ閉館の報を聞きまして号泣。リブロレス症候群に陥らないために、池袋ジュンク堂を詣でました。じわじわと身体を慣らしていかないとショック死するかもしれんからね。

さすがに9階建ての本屋でありまして、あら、こっちだって楽しいじゃない、と早くも持ち前の順応性を見せつつあります。いや、実際には昔からちょこちょこはしごはしてたんですけどね。



当方、理系のはしっこの方におりましたので、当然ジュンク堂に来た場合は7階まで駆け上がる必要があります。自然科学系ってね、いいんです。ジャンルが広範囲に渡ってて、総じて適当な感じが。総花的です。たぶん本屋さん的にも困ると思う。この本は「自然」なのか、「森林」なのか、「林業」なのか、「保護」なのか。
狭い業界で一世を風靡した先生の名著がちんまり端座する一方で、丁装のきれいな新刊が面だしされてて思わず手にとってしまいます。やっぱり丁装のきれいな本だよな。地味で、しかも字ばっかの本なんて。

ちょっと目的があって、訪れたんです。「自然」もしくは「自然保護」という棚はまだ残っているか、確認したかった。リブロは消えました。でもジュンク堂にはまだありましたね。

何が言いたいかって、この手の自然系のカテゴライズってけっこうあいまいだ、ということ。
僕が理工書の担当だったと想像するとですね、この本は何が言いたいのかとぱらぱらとチェックしたあと、ダメだー、となって、自然保護(もしくは自然)の棚に突っ込む、という理路だと思うんです。ちょー想像できる。
違う、理工書の担当が悪いんじゃない。カテゴライズできないくらいに、幅広過ぎて、あいまいだということを申し上げたいのです。
林業機械、菌類、自然思想、ヨガ、自然派ゆーめーじんのふわっとしたエッセイ、そして幸田文と森林太郎が渾然一体となり、ひとつの枠に仲良く収まっているのをみたら、爽快な気持ちになるはずです。田舎のTSUTAYAとかいっても見ることができて、熱いものが込み上げてきます。学際的っていうかなんというか。
「自然保護」の棚が消えた理由の一つとして、僕は「曖昧さ回避」が理由であったと睨んでいますよ。勝手に。


話を戻します。

「自然保護」というジャンルは一時期ミスフィッツたちのゴミ箱のように扱われていたような気がしてます。それは甘酸っぱい思い出はあるんですけれど、やっぱり自然保護はもともと一つのジャンルでしょ、と思うんです。

たとえば?ナショナル・トラスト。


ナショナル・トラストという言葉を知ったのはいつだろう。これ、はっきり覚えているんです。学校の教科書。ピーター・ラビットと合わせて書かれたエッセイ。

はてさて。ググるとちゃんと出てくる。
新板中学国語 2 東書文庫  東京書籍
うーん。「青丹よし」、「包む」、「流れ橋」、「夏の葬列」、「木を植えた男」、「敦盛の最期」けっこう覚えているのに満足しつつ、中二くらいから全然進歩してないのでは、と一抹の不安がよぎります。


話を戻します。

この国語の教科書に収められている、諏訪雄一さんのお書きになった『ピータラビットとナショナルトラスト』というエッセイ。これで僕は「ナショナルトラスト」という単語を知りました。
このエッセイはピータラビットの原作者である、ビアトリクス・ポターが彼女の愛した湖水地方の自然を残すため、彼女自身が農場を買い上げ保存(ナショナルトラストに寄贈だったか遺贈だったか)した、というお話。
うむ、すごいことだ。当時ずいぶん感心した記憶があります。たぶん春先、授業で「青丹よし」をやっていたあたりに読んでいた。教科書は読み物集ですからね。


ナショナル・トラスト。

自然でも田畑でも古いお屋敷でも、ずっと残した方がよいと思われるものがある。
海外にもあるし、日本にだってある。
トラスト運動は、保存する価値のある対象があって、それを買い上げます。

たとえば田畑やお屋敷を保存したい、とする。歴史があって、趣があって。
それらはかつて、「生活の形」として田畑なりお屋敷は機能していた。保存されるのは現にある、田畑・お屋敷ではあるけれど、その後景にはかつての「善き」生活があったはずです。
とはいえ、時代の流れとともに遺物となる。ともすれば解体されてしまう。

もしかしたら日本では、リアルな原生自然を守ろう、というのはむしろ少ないケースかもしれません。僕らが愛着を持つ「善さ」は、かつて人と自然が作り上げてきた身近なものである場合が多いと思うんです。文化的景観とか、最近よく言われますね。

しかし、そもそもそれらは旧時代的だから捨て去れれた様式であったはずです。効率性とか生産性とか、いろいろな面で「立ち遅れ」たから、捨てられた。今では「業」として成り立たない。

そういったものを「保存」するのは、「時代遅れとなった生活様式をもう一度抱きしめること」であるように思うんです。そしてたぶん、相応にめんどくささがつきまとうんでしょう。時代遅れのものだからね。

そんなところで、だぶん連載になると思うんですけれど、目的を。
まずは様々あるだろう「抱きしめ方」について。ナショナル・トラストを手始めにして勉強してみたいと思います。
あと、そもそもなんで「善い」のか。「古き」は必ずしも「良く」ない。新しいiphone出たら買い換えたい。にもかかわらず、くたびれたお気に入りのクマのぬいぐるみみたいに、古臭いものを抱きしめてしまう心性について、併せて考えられたらいいな。そもそも僕自身が抱いている「善さ」とはなんだろう、と。

たくさん過去には履歴がありますし、今だっていろいろな人が取り組んでいます。そうした取り組みを見ながら、上のようなことを考えていけたらいいな。


今日は、こんなところで。

その2 につづく