2014年12月7日日曜日

高木正勝さんとottoさんのライブをみて考える「表現すること」

実家でホコリをかぶっていたサブウーファーを佐渡まで送ってもらって、3年ぶりに2.1chで音楽を。小さな至福。Eclipseはフルレンジで音の分離のよい良いスピーカーだけれども、低音が弱い。ウーファーで世界が広がった。あるとないでは大違い。

おそらく年内最後のコンサートだろうな。
だれでもプロジェクトPresents "subliminal wave of light" otto and orabu×高木正勝 LIVE at Miraikan
いやー、絶妙なタイミングで上京の日程(期日前投票)と合って。らっきー。

otto and orabuは鹿児島の障害者支援施設のバンドというか、楽団らしい。
音楽活動に限らず、幅広い創作活動が行われているようだ。


高木さんは新譜が出たばっかり。ますます宮沢賢治化に拍車が。
かがやき
かがやき
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高木正勝
felicity (2014-11-19)
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確かにエレクトロニカ・アーティストから4万キロくらい遠ざかった。ただし、アンビエントという意味では一回りしてエレクトロニカに再接近しているのかも。
あと4万回くらいは聴き込みたいので、レビューはまた今度。



高木さんのライブは"Yumene"以来。そういえば前見た時も冬だった。
科学未来館のホールでのライブ。面白い場所でやるんだね。振り返ったら立ち見客まで。300人くらいは入っていたんじゃないか。


なんだかすっすと入ってしまってピアノの真裏のじゅうたん席という好位置につけたので、のんきにあぐらをかきながら音に耳を澄ませる。



ライブは"girls"で幕を開ける。
高木さんは相変わらず、音を探すように、ぴこぴこと指あそびを始める。メロディが徐々に浮かびあがり、輪郭を帯びる。
エレクトロニカ出自だけあって、高木さんの弾くピアノの音色はクリアで明晰な印象。でもこの日は違った。音が開きっぱなし。ピアノから音は次々放たれ、混ざり合い、強烈な塊を作り出す。それはちょっとした混沌で、僕を圧倒する。
熱を帯びるに従って、彼は椅子から立ち上がらんばかりに震え、身体を動かす。


曲間のMCでこんなこと。
ピアノという楽器って難しいんです。音の合わせ方(重なり方)によって、音は濁って汚くなる。(人差し指でぽんぽん鍵盤をいくつか叩きつつ)だから僕は合わせない。ひとつずつ弾いていく(だんだん運指が早くなり、フレーズになる)。僕はこれだけしかやってこなかったんです。この素人芸をどこまで突き詰められるのか、ってとこです。
なんだかちょっと自嘲気味にそんなことを云う。
初めて演奏を聴いた友だちが「まるで星がこぼれるよう」と形容する。いい表現。

実際、高木さんの説明は不十分だと思う。彼はコードだって弾くし、きれいなメロディになるよう音を選んでいる。今日の演奏に至っては音が入り乱れていたし、不協和音を混ぜ込み意図的に混乱させ、汚しているようにさえ感じられたから。

うーん、とため息をついて、もうちょっとシンプルに、と高木さんは力なく笑う。


事前のトークセッション。
otto and orabuの「指揮者」福森伸さんは、入所者のひとたちを「行為をする人」と定義する。
例えば木工。箱づくり。
ある人は10個に2つは模様をつけるどころか、箱そのものを壊してしまう。でも当人にとっては成功かもしれない。破壊だって行為だ。程度の差。自覚があるかどうかは別として、それは主体的な行動であり、表現である。
福森さんの話に、高木さんはうらやましい、と返す。
やりとりが妙に心に引っかかる。


ottoのライブは迫力満点。フリージャズ/現代音楽、と呼べばいいんだろうか。
あれだけ大量のパーカッションが入ると、問答無用で楽しい。障害者云々なんて注釈は全く不要。
あー印象としてはですね、Slipknotを想像してました。ヘヴィだ。
 

まるっと障害者のひとたちが演奏しているわけではなくて、アウトラインはその道の人が導いているように見える(本当のところどうだかわからない)。アウトラインさえあれば/初めの一歩さえ踏めてしまえば、実に彼らはノリよく各々の「表現」に集中する。

パフォーマーたる彼らは必ずしも、この種の音楽が好きというわけではないと思うんだ。提示されたものが演歌だとしたら?きっと演歌的アウトラインの中で「表現」するだろう。あんまり僕はよくないことを云いそうになる。というか、云う。
「狙いや意図を持たない表現者」。
どうもすっきりしない。おしりがムズムズする。

福森さんは、我々だけでやってもなんだか面白くない。彼らとともにやると、違う。そう語る。その場のマジックというか、偶有性を織り込んだ音楽というか。


高木さんは「おおかみこどもの雨と雪」の”おかあさんの唄”も演奏してたよ。
 
初めて歌詞をちゃんと聴いた。
安定感と温かみのあるアン・サリーの声に比べ、高木さんの声はか細くてへたうまだけど、不思議な震えがある。ジーンと来てしまった。最近は涙腺がいかれてしまっていかん。子どもの描いた絵や歌に時折憶える「震え」ってなんだろう、と考えはじめる。
巧拙とは違う水平線がどこかにあるのだ。


きっと高木さんがうらやましいのは、単なる表現者でしかない、あるいは表現者である自覚すらない姿勢なのだろう。
作品を作るほどに自分自身への注文が増えるかもしれない。外部の評価も厳しくなるかもしれない。
しかしそれと「行為する/表現をする」のは、本来違う。違うはずだ。

目の前の楽器(と指揮者の合図)だけしかない世界。
純粋で無邪気な集中力だけが支配する世界。

頭ではわかっている。でもわからない。僕と彼らを分かつものはなんだろう。
僕はなにか大きな考え違いをしているのか。



ベトナムから帰国してブログをやめてもよかったんだ。でも一年を過ぎて、未練がましくまだ駄文を連ねる。表現の道具を手放したくなかった。僕は結局ものを書くのが好きだ。
書くという行為が好きで、たぶんそれ以上のものを望もうとしている。たぶん、ね。
くるくるとこう、考えるわけです。