2013年4月11日木曜日

鼠食・犬食・モラリズム

間伐の間、朝5〜6時に支所・U MinhⅡに出勤。本所へは午後から社長出勤をかましていた。誰よ毎日くるこの外国人は、っていうのにはいいとして朝昼のめしを施して頂いた。外人だって腹は減るからね。ありがたいことです。

さて、U MinhⅡ。職員はもちろん男だらけ。男汁溢れる職場である。
そこに工学部的悲哀を感じるが、当人たちはけっこう楽しそうである。

工学部、と書いてふと思い出した。
学科内の女子率わずか2%という事実に目頭を熱くしていた彼は、今元気にしてるだろうか。女子など皆無であります!と嘆く彼には慰める言葉が見つからなかった。女人禁制の、これまた異臭漂う下宿で交わされた会話である。
正直なところ、機械やら数学やら、選んだ学科でもう自業自得だろう、という気はしたものの、もちろんそんなことは言えなかった。当方も林学だったわけで。
そう、そして彼らはついに大海へと泳ぎ出たのだ。

あるいは「合コンしたくない大学ワースト2」という素敵な勲章をぶら下げた大学において。思えば春先の農学部キャンパスには、三週間ほど食餌にありついていないハイエナのような目をした工学部生が群れを成し押し寄せ、かつ、無意味にたむろしていた。今でも府中界隈で目にすることができる、春の風物詩である。
男子の草食化が叫ばれる昨今、国宝とはいかぬまでも無形文化財くらいで手厚く保護したほうがよいのではないか。



さ、春らしい話題で盛り上がったところで、話を戻す。
朝、事務所に着くとMoくんが意気揚々とカゴを提げて帰ってくる。仕掛けたワナを回収してきたようだ。なんだこりゃ。



存外、つぶらな瞳のかわいいやつらである。早朝の歌舞伎町とかで出くわすやつらとは違う。


メコン・デルタの農村部ではよく食べる。他の地域はしらん。貴重なタンパク源。
なんでもねずみ不足でカンボジアから輸入したこともあるとか。絶対、クメール人にベトナム人ねずみ好きすぎwwwと思われてると考えると、なんだか不本意だ。
実際、メコン・デルタにはクメール人がたくさんいるので、ちょっと持ってこいよ、くらいのことなんだと思う。カマウ省のテレビはクメール語のニュースもあるくらいで。




そしてこういう風になる。開いて素揚げです。農家のおばちゃんとかはもう少し凝ってて内蔵も炒めものにしたりする。男の料理なのでそこまで求めない。鶏肉的。高温で揚げるためか骨までいける。おいしい。
添え物は空芯菜。当地ではけっこうサラダ的に生食するんだけれど、他の場所でベトナム人に話したら、え!って云われた。あんまりポピュラーじゃないのか。


そして犬食。別にすごくおいしい、とは思わないけれど、出されたら食べます。この日は生姜を効かせた甘辛仕立て。独特の匂いがある。皮が硬いんだ。エビの塩漬け(ペースト状の発酵食品)をつけて食べたりもするな。


自分目が悪いんで、いぬをたくさん食べろ!と言われます。効くんでしょうか。
しかしだね、いぬねこをからかうのは大好きなので、こういうときはどう自分の中でどう整理すればいいのか、と折角なので少し考えてみる。自分がいぬねこを飼ったとしたらまず食べない。と思うんだけど。

犬食文化-wikipedia 人によっては閲覧注意、なのかしら。
日本では犬食が本格的に廃れたのは「生類憐れみの令」以降なのか。なるほど。

牛豚を食べるのと犬食の違いは「人との近さ」だろう。いぬはなつく。実にういやつである。
ベトナム人を見ていて思うのは、動物に没入をしないこと。名前をつけたりとか服を着せたりとか。最近ホーチミンではちらほら見るか。
入れ込まないから、距離感があるから、可愛がったり食べたりする、のか。

森見登美彦の「有頂天家族」で、淀川教授は「愛するゆえに食べるのだ」とのたまう。主人公たる矢三郎はそもそもタヌキで、日々タヌキ鍋への転落の恐怖と格闘しているわけで、このケースであればなんらかの示唆が見いだせようが、単にHAHAHAと面白おかしく読んでおしまいにしてしまったのが実態である。なんら肥やしにはなっていない。
まあ、僕にすれば「愛ゆえに」っていうのはいささか過剰だ。ユリアかと。いぬをそこそこ愛しているけど、でも食べちゃった、という顛末にすぎない。やっぱり愛が足りないのか。


動物を大切に思う心性は否定しない。人よりも心を通わせることだってある。人が動物に没入するかどうかはその人の生い立ちや生活、文化やらの文脈に依存する。それはいいも悪いもないわな。好みというか、その人の中に形づくられたモラルだ。
問題はさ、とても動物を大切な存在に思う人は、その動物を食べるなんて振舞いが許せないかもしれない、ということ。気持ちはわかるんだが。
「えっ!ねずみ食べるの!」と「えっ!いぬ食べるの!」では込められた感情が違う場合があると思うのね。いぬとねずみの間には、たぶん見えない一線がある。

「私はそういうのがキライだからやめろ」と云ってくれればいいけれど、たまに巷間を賑わせる食文化の排斥はそういう顔ではやって来ない。たとえば「犬食なんて野蛮な人間のすることです」とか。わりとぱりっとしたフォーマルな出で立ちで現れる。そこに「好み」が含まれていることは、時に隠される。
「好み」は結局、「好み」でしかない。個人の好みに根拠があっても、他人にそれを強制していい根拠はない。
パターナリスティックな振る舞いがそもそもイケスカナイとか、そもそも食文化をスケープゴートにした別の何かだ、ということもありそうだけれど、主張される理由を丁寧に解きほぐしていくのもまた、大切なのではないか。めんどくさいけど。


僕としては、犬は好きだけれど、そこまで肩入れはしていない、ということか。
こひつじを寝かしつけることができる、あまり役に立たない種類の鬼の手を持っているけれど、ラムチョップは大好きだ。そもそも不眠症のひつじになんで出会ったことがないし、ねぇそれひつじとしてどうなのよ、とむしろ相談に乗って差し上げるべき事案だ。
こういう擬人化がいけない説。ま、いいか。
馬も好きだが馬刺しはうまい。うり坊はかわいいけれどぼたん鍋はうまい。ああ、もみじ肉もいいねぇ。
無節操。やっぱ愛か、足りないのは。


「モラリティの密輸」に関してなんか本を読んだ気がする。北田暁大だったような気がするんだけれど、忘れた。読書ノートには載ってない。大庭健だったかな。
帰国したら調べよ。