2011年7月26日火曜日

プラスチック・ソウル


デビット・ボウイのやるソウルは、かつてそんな風に呼ばれていた。「火星人」の頃のボウイが好きな僕は、その後のディビットがピンとこない。 "Let's Dance"とか全然キライ。
 僕より少し前の世代の人が想像するプラスチックって、半永久的に、色鮮やかで、しなやかで強い素材というイメージだったのだろうか。"プラスチック・ソウル"という言葉は、「白人のやるニセモノソウル」の謂だった。そう聞く。

キャッチーでポップ、つるりとした質感を。しかしそれは、まがい物でしかないことを。
「プラスチック」という言葉は載せていた。ボウイはずいぶん頭のいい人だ。




ここの道端には、プラスチックでできたテーブルやイスがそこらじゅうに置いてある。あるイスはカフェのイスであり、またあるテーブルは屋台で買ったものが食べられるように。あるいはただ単に、住人が往来を眺めるために。沿道にイスは置かれている。


新しい物もあれば、古いものもあって、その数の多さに思わず目がいく。


僕だってプラスチックにはずいぶんお世話になった。なんであんなに作ったのかわからない大量のプラモデル。型から切り取って、ひとつの形ができあがる。色とりどり、つるりとした、たくさんの部品。ニッパーで切り取って、嵌め合わせる。
たしかにそこには、何がしかの夢のかけらがあった。そんな気がする。

もう一つのプラスチックのイメージ。人のいなくなった砂場に忘れられた、子ども用のプラスチックの小さなシャベルだ。砂にまみれて落ちている。表面はがさがさとして、白っぽく退色している。
このシャベルはかつて、鮮やかな色と光沢、つるりとした質感をもっていたはずだ。砂浜を歩いて、打ち捨てられたシャベルを拾い上げては、そんなことを考える。


日本海の浜辺を歩く。実にいろいろなプラスチックに出会った。
たとえば秋の一日。楽しい海水浴の残骸。
あるいは早春の海岸。ハングル文字のボトル。日本海の冬を乗り切って、疲れきったプラスチックの残骸たち。揉みつくされ、洗いつくされ、打ち上げられ、くたくたになったそのカケラたちは、なにかの秘蹟のように、静かに横たわる。

プラスチックの話だ。

太陽が、紫外線が、プラスチックを劣化させる。
ボウイはもしかしたら永久に持続する物質として、プラスチックを夢見たのかもしれない。でもそんなことはない。人と同じように、物質だって歳をとる。



ベトナムにはプラスチックの製品が多い。イス、つくえ、コップ、はし。あらゆる物がこの場所ではプラスチックによって作られている。

僕はここで、プラスチックという素材について思いを巡らせる。
夢のような鮮やかな、でもどこかしら毒々しいその光沢について考える。その鮮やかさ、しなやかさはほんとうは限定的だ。「プラスチックの栄光と衰退」はどこか、スターの凋落を思わせる。栄光と、退廃。

劣化し、鮮やかさ・しなやかさを失ったプラスチックだって、もちろん機能はある。白っちゃけようが、がさがさになろうが、イスはイスだ。壊れるまで、もちろん使える。


でも不思議なことに劣化したプラスチックには道具としての魅力を失う。なんでだろう。色合いを失ったプラスチックは、なぜか新しいものと取り替えたくなる。
きっとプラスチックは出来上がったときがポテンシャルの最高潮なのだ。エントロピーに従い、そのポテンシャルは失われる。徐々に魂が抜け出てしまう。
白っぽく劣化した、プラスチック製品はどことなしに白骨を想像させる。

プラスチックは「間に合わせの品」、「交換可能な品」を表象し、機能している。色褪せ、しなやかさがなくなり、いずれ棄てられるを誰もが知っていながら使われる。かわいそうなことだと、僕はちょっと同情している。
最近よく使われる生分解性プラスチックなんてさ。いずれ消えてしまうことに価値が見出されるんだぜ。かわいそうじゃないか。


変わりつつある国。変わりつつあるからこそプラスチックを使う。アジアにプラスチックはよく似合う。どんどんと取り替えていくことによって、極彩色の夢を持続させているかのようだ。


この場所は何かをストックする場所ではない。作って、間を置かずに消費する。富も、食べ物も、自然も。そうしないと劣化してしまう。この場所はストックする意味はあんまりない。生まれてから最も「フローな世界」に、僕はいるのではないか。

そんなことを考えていると、プラスチックという素材と、はどことなく親和性があるように思える。いろいろなものが、この国では仮縫いなのだ。ほどけたら、また仮縫いする。そう、手近なプラスチックとかをつかって。
本縫いする時間も余裕も、持ち合わせてはいないかのように、人もモノも、めまぐるしく動きまわる。